佐々木塾ブログ

虔十(けんじゅう)公園林

 今年3月千葉大の後期日程の小論文対策をやっていた時に課題文になっていたのが宮沢賢治の「虔十公園林」である。気になるのでもう一度取り上げたい。それほど優れた示唆に富んだ本である。恥ずかしながら宮沢賢治は自分では読んでいるほうだと思っていたのだが、「虔十公園林」は初めて読む本だった。この作品のテーマは「本当の知恵」とは何かであり、軽度の知的障碍者を持つ虔十という少年の行為がその土地に多くの偉人を生み出し最終的に地域に多大な貢献をしたという構成になっている。賢治が私たちにたくさんのことを問うているここではこれを考察したい。ウィキペディアからそのあらすじを引用する。
 
虔十はおかしくもないのに笑ってばかりいて知恵が足りないと周囲からバカにされている少年である。
雪の残る早春に、虔十は家の裏手に杉苗700本を植えることを思いつく。最初兄から土が合わないと反対されるが、父が虔十の初めてのわがままであることに気づいて、やらせてみることになる。翌日虔十が木を植えているのを見て、隣の平二がばかにして止めさせようとするが、兄がやってきたおかげで何事も起きずにすむ。しかし虔十が木を植えたうわさが広まり、近所から冷笑される。


木は5年までは成長がとまり8年経っても9尺(約2.5m)に留まった。百姓の冗談を真に受けた虔十は下枝を刈って、盆栽のような林になってしまう。兄はそれを見て笑ったもののよい薪ができたと虔十を慰める。しかし、翌日からそこは子供たちの格好の遊び場になり、虔十はそれを見て満足する。


ある霧の日、再び平二が実害もないのに、自分の畑に影が入るから気を切るように県十に迫った。平二は虔十に手をあげるが、虔十はそれを断り、林を守りきる。そういうことがあって後、平二も虔十も病気で亡くなってしまう。


それから20年館の間に町は急速に発展し、昔の面影はどこにもなくなってしまう。ある日この村を出てアメリカの教授になって帰ってきた博士が15年ぶりに帰郷し、地元の小学校でアメリカについて講演をした。講演後、博士は小学校の校長たちと虔十の林に足を向け、この林だけがそのまま残っているのを発見して、子供心に馬鹿にしていた虔十のことを思い出す。そしてこの背の低い虔十の林のおかげで遊び場が提供されていたことや、今の自分があることを悟り、林に重要性に初めて気づく。


博士は「ああ、全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません」と言って、校長にこの林を虔十公園林と命名し、子供たちのために永久に保存することを提案する。その話が広く伝わり,碑が立つと、かつて虔十の林で遊んで立派になった大人たちから多くの手紙や寄付が学校に集まり、虔十の遺された身内は本当に喜んで泣いた。

以上があらすじであるが、この作品は1934年に発表されている。賢治没年は1933年であるからこれよりも前に記されていたことになる。世界恐慌が起きた翌年である。第2次世界大戦勃発の10年近く前である。この時代に宮沢賢治は今でいうノーマライゼーションと環境破壊とその保護、都市の景観について予想していたということになる。今さらながら賢治の現代社会を先取りした慧眼にはただただ敬服するしかない。次項でノーマライゼーション・環境保護・破壊・都市の景観を考察したい。







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